■バックナンバー
■RSSフィード
RSS 1.0 RSS 2.0 Atom 1.0
■このブログのURL
http://sns.itamachi.jp/blog/blog.php?key=52041
2016年09月06日(火) 
パインアップル(以下パイン。パイナップルじゃないんですね)は、サトウキビとならび,1950~1960年代の沖縄農業を代表する作物でした。戦後に日本政府が、パイン缶詰を「南西諸島物資」に指定して保護政策を取ったことを契機として、1950年代後半から沖縄は「パインブーム」に沸き立ちます。1955年に、本土の東洋製缶による技術援助の下、本格的な缶詰工場がスタートしてのをきっかけに、離島を含む各地に家内工業的なパイン缶詰工場が作られ、1960年までの間に加工工場が次々と稼働して生産を爆発的に伸ばします。

パインは台風や干ばつに強く、傾斜地に適しているだけでなく、主要作物のサトウキビとも競合しないことから、需要が増えるに従って、他の作物からの転作や開拓地への作付けが急増しました。パイン生産によって「1千万円農家」が出現したのもこの頃のことでした。加熱するパインブームを抑制するために、琉球政府主席が最低価格を設定するという対策が取られるなど、この時期の農家は、高収益が得られるパインに比重をおいていきます。

順調に拡大してきた沖縄のパイン産業ですが、1970年代半ばからはさまざまな逆風にさらされることとなります。もともと沖縄のパイン缶詰は、優遇措置や関税及び輸入規制に守られていました。ところが、1974年の石油ショック以降の日本経済の冷え込みが、高級な贅沢品と考えられているパインの売れ行きに大きな影響を与え、業界は過大な在庫を抱えることとなりました。在庫が増えると工場は操業率を落として生産調整をしなくてはなりません。必然的に農家には出荷できない大量のパインが残されることとなりました。

1976年になると景気は回復し、パイン缶詰の需要も復活しました。今度は工場が一度絞った生産を戻そうとしても、原料となる加工用パインの作付けが激減してしまっていたので、少量のパインを工場が奪い合うような事態となり、多くの工場が閉鎖を余儀なくされ、パイン産業全体が大きなダメージを受けました。最低価格の設定もなくなり、工場側はこれ以降、原料不足の時には高値で買い集めるが、豊作の年はできるだけ安値で買いたたくという買い付け方法となって、不安定な相場が農家の生産意欲をますます減退させていきました。

とどめを指したのが、1988年の第8回ガット・ウルグアイラウンド交渉での農産物輸入自由化交渉でした。他の農産物と同様に関税が撤廃されたパイン缶詰は、安価な輸入缶詰との競争の中で、原料価格の一層の引き下げを余儀なくされました。加工用パインを供給する農家の生産意欲はますます低下し、作付面積も激減します。

このようにして、沖縄のパイン産業は、壊滅的な打撃を受けました。その結果、今世紀に入った段階では、沖縄本島北部にわずかに残された加工用パインの生産と、本島北部や八重山地域における生果生産のみが細々と存続しているという惨状となります。沖縄のパイン生産は、零細な農家が、本土の市場と国際情勢に翻弄された、ひとつの象徴的な出来事だったのです。

つづく

次回は、「生菓パイン生産への転換」です。

閲覧数202 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2016/09/06 09:33
公開範囲外部公開
コメント(0)
  • 次項有コメントを送信
    閉じる
    名前 E-Mail
    URL:
    ※画像に表示されている文字を入力してください。
■プロフィール
こたつねこさん
[一言]
地域を元気にする情報化に貢献したい♪
■この日はどんな日
書き込みはありませんでした。
■最近のファイル
■最近のコメント
■最近の書き込み