6月19日に私の父である直邦が逝去いたしました。 私としては、とても悔やまれることがあります。 病院から訃報を聞いたのが午後6時過ぎでした。 その原因は病院のカルテにある、私の携帯番号の下二桁が逆になっていたことです。 担当の方が何十回と電話していた時に、まさかということで試してみて奇跡的にかかったということでした。 ことの発端は、父はひどい吐き気があるということで、浜島町にあるクリニックに往診に来てもらっていました。 胃カメラは、嫌だということで血液検査で二つの腫瘍マーカーのチェックをしてもらっていましたが、正常値でした。 しかし、状態が悪いので、入院を勧められ、14日から入院をしていました。 CT等を取ると、末期の胃がんで肝臓にも転移しており、後数か月という診断でした。 家でゆっくり療養したいということで、24日に帰る段取りを自分でしていました。 地域連携の方と前日まで、しっかりと話ができていました。 しかし、19日に吐いたものが気管に入り、苦しんだことで急激に悪くなりましたが、最後はすーっと安らかに眠られるように亡くなったと担当医から聞きました。 父に対面したのは、日付が超えて20日になっておりました。 最初は、病院にいると思っていたのでした、セレモニーホールに運ばれており、とんだ勘違いをしていました。 父は後妻さんを迎えており、その娘さん夫婦が対応してくれたのです。 ホールで朝まで一晩、ゆっくりとお酒を交わしつつ父と話しました。 深夜2時過ぎに私の次男家族が到着し、早朝に東京から三男が来てくれました。 長男と長女はオーストラリア在住なので、LINEでメッセージを送ってくれたので、それを代読しました。 孫2人にとっても、とてもショッキングな事だったと思いますが、最後に生きることを祖父から教わったと思います。 出棺し、斎場に向かう時に、志摩の家に戻りたかったことに気付き、無理を頼んで家に寄ってもらい、展望台から晴天の志摩の景色を見てもらいました。 その後、お骨にして志摩の家に戻りました。 義母もかなり高齢なのですが、事務手続きがかなりあるので、みんなで昼食を取った後、役所に行って出来る限り処理してきました。 最後、お世話になったクリニックの先生にお話をお聞きして帰路につきました。 母の時と同じように、尼崎で葬儀をと最初は考えておりましたが、出席して欲しい父や母の親族が90歳以上となり、出席が難しいということと、時代の変化もあり、葬儀社と話をしているうちに、やめることにしました。 みなさまには、お知らせが二転三転してご迷惑をおかけしました。 申し訳ございませんでした。 最後に、父は甲陽学院の教員でしたので、学校にお知らせしましたときに、電話口に出た教務部長さんが、なんと父の教え子さんで、言葉に詰まってしまいました。 多くの人のご縁を得ていたのだと実感しました。 教師という職業を選んだ父を再度、尊敬しなおしました。 みなさま、本当にありがとうございました。 |